40年前に起きた和田医師の心臓移植問題で、
我が国の国民は過度に萎縮し、
我が国の臓器移植医療は歩みを止めてしまった感がある。
今、「移植に必要な臓器は自国で賄うべき」と世界の潮流に押され、
切羽詰まってようやくこの法案が成立したともいえる。
私達は考えるべきだ。
幼い子供の命を救うために、
巨額の渡航費用・手術費用を募金でまかなわなければならないこの日本の現状を。
そして、間に合わず、ついえてしまったかけがえのない命があったことを。
何よりも、この現実に目をつぶり、
我が国の国民の命を、他国の国民の「命のリレー」に依拠してきたことを。
「移植に必要な臓器は自国で賄うべき」との世界の批判を受け止めるべきである。
「臓器移植はイヤです!」という家族の意思を無視して
強制的に臓器移植をしようというのではない。
NO!との家族の意思は当然尊重されるのである。
3年前、宇和島徳州会病院の万波医師が病気腎移植を行っていたことが
バッシングされた。
私は、その少し前、
アメリカの医療テレビドラマで病気臓器移植の場面を見て衝撃を受けた。
疾患にかかったことのある臓器の移植など、
言語道断、考えたこともなかった私は、
死を目前にした人が、
完璧ではないにせよ、より良い臓器の移植を受けることは、
「命」を限りなく大事にすることなのだと知った。
だから、
臓器移植後進国のこの日本における万波医師の
その勇気と信念に驚愕した。
どの時点をもって人の死とするのか、
その判断は誰がどうやって行うのか、
家族の心情をどうするのか、等々議論することは限りなくある。
しかし、この議論は一体いつまで続ければ良いのだろうか?
臓器売買等の弊害も、別途法規制を施すことによって対処可能なことである。
この議論に決着をつけるのは、
「命のリレー」を誰が担うのか!?という価値判断と決断である、
と、私は思う。
私の定期入れには、スイカのカードと一緒に、
2003年9月21日に書いた「臓器提供意思表示カード」が入っている。
その時が来たら、私の命を誰かにバトンタッチしたいと思う。
私は、この思いを誰にも妨げられたくない。