神戸須磨区事件の容疑者逮捕のニュ−スは、
その日、日本を縦断した台風をも吹き飛ばした。
だがしかし、情けなかったのが、
日本の多数のマスコミ陣である。
もともと捜査機関の情報の垂れ流しに終始しがちだが、、
今回は、伝聞情報に踊り、不確かな目撃者談を総合して、
似顔絵まで作り出す始末であった。
昨日すれ違った見知らぬ人の身体・顔・服装等を、
どこまで再現できるか試してみると、人間の記憶の不確かさに愕然とするはずだ。
目撃者談にたまたま当てはまる人がいて、たまたまその日のアリバイがなく、
そして「たまたま」がもう一つ二つ重なったら、
第二の松本サリン事件の「河野さん」を作り出したかも知れない。
その恐ろしさを、噛み締め反省しなければならないというのに、
今度は少年法批判の嵐を巻き起こそうとしている一部マスコミ。
少年法は過保護であり、
自分のやったことの責任を取らせるべきだ、
欧米では写真・実名報道は当り前だと言う。
幼い頃から権利と自己責任の意識を育む社会・教育システムを持つ欧米と
それらのシステムが未成熟である日本とは、少年の成育環境が根本的に異なる。
日本の少年法が仮に過保護であったとしても、
この日本の社会・教育システムが、未だなおそれを必要としているのである。
更に一部マスコミは、少年が二年で社会復帰してきた時の社会防衛論を持ち出す。
が、この機会に議論すべきは、
少年院を始めとする少年の更生施設の不備であり、
将来少年が復帰する日本社会のあり方である。
被害者側の人権を盾に、
加害者の人権を擁護する必要などないとまで言い放つ。
被害者の侵された人権に対して何をもって報いるべきかは、
人類が長い歴史の懺悔の上に築き上げた遺産である
司法制度というシステムの中でのみ決定されていくのである。
被害者側の人権を、更に蹂躙したのが当のマスコミではなかったか。
唯一救われる思いがしたのは、被害者の子供のことに心を痛め、
容疑者もまた子供であったことに心を痛めた大多数の国民の良識である。