※氏名等は仮名です。
1 昭和30年、嫁いですぐ、「一家に女は二人いらない」と、
セイさんの婚家の家業である塗装業の見習いが始まった。
毎日ペンキまみれになった。
女だてらに、屋根にも上り、職人達に号令をかけることもやってのけた。
義父忠太郎は、現場で弁当を開きながら、セイさんに、
「昭夫は、小さい時から体が弱くてな、長男ということもあって、
わしは少し甘やかし過ぎたかもしれん。
苦労ばかりかもしれんが、セイがこの家を守っていってくれよ。」
と、よく語ったという。
家に帰れば、
病弱な夫昭夫さんと息子3人の世話
だけでなく、
昭夫さんの幼い弟・妹4人の世話が待っていた。
昭夫さんの姉妹達は、嫁いだ後も里帰り出産をし、
その度に、生まれた赤ん坊の世話もした。
しかし、貧しく、眠る暇もなく働き続けた辛い日々だったけど、
幸せだったという。
息子たちも成人し、それぞれ独立した。
病弱な昭夫さんは、60歳前に他界した。
2 セイさんと息子さん達家族4人に裁判が起こされたのは、
バブルの余波残る平成2年夏であった。
原告は、昭夫さんの弟・姉妹4人全員である。
実家の土地の父忠太郎さんから長男昭夫さんへの相続登記は無効だとの裁判であった。
時価推定額約5億円の土地をめぐる事件である。
昭夫さんが亡くなって一週間後、セイさん家族の涙も乾く間のない時の事であった。
つまりは、昭夫さんの亡くなる前から準備された裁判であった。
3 問題の相続登記は、その13年も昔になされたものであったが、
当の昭夫さんが亡くなった途端、昭夫さんの弟・姉妹4人が口を揃えて、
忠太郎の遺産分割協議はなかった、
『忠太郎からの遺産を一文も分けてもらっていない』、
昭夫名義への相続登記は、昭夫が勝手になしたものであり、
よって相続登記は無効だ−と主張したのであった。
だが、たまたま、その半年前、私は昭夫さんから、
自分の遺産全てをセイさんに相続する旨の遺言書の作成を依頼され、
遺産の土地のル−ツを調査していた。
忠太郎さんの相続時、実家の不動産は、
長男昭夫さんと次男が分割して相続登記していた。
他の姉妹は、
嫁入り時に多額の持参金と嫁入り道具を買い揃えてもらったことから、
「相続分なきことの証明書」を提出し、遺産はもらっていない
−というところまでは判明していた。
(良くも悪くも、日本社会ではこのような相続はしばしば見られたことだった。 )
日本の登記制度は、形式的かつ厳格である。
相続人が複数いる場合、相続関係を証する全ての戸籍謄本等を揃え、
かつ遺言書か遺産分割協議書等なくしては相続登記はできない。
遺産分割に加わらなかった相続人については、
相続放棄申述受理証明書、
或いは印鑑証明添付の「相続分なき証明書」などが必要である。
忠太郎さんは遺言書は残さなかった。
他の姉妹は、「相続分なき証明書」を出している。
従って、昭夫さんと次男に相続登記がなされているとしたら、
少なくとも昭夫さんと次男の二人の遺産分割協議書が存在していたことを意味する。
しかし、裁判で原告側から出された多数の登記簿の謄本には、
次男の土地の登記簿謄本のみが欠落していた。
意図的としたら、あまりに稚拙な作戦であり、
意図的でないとしたら、あまりに杜撰な訴訟提起と言わざるを得ない。
4 しかし、裁判は、これで決着するほど単純ではなかった。
原告たちは、実に様々な主張を展開した。
① 次男への相続登記
実質は生前贈与であり、遺産分割が未了であることに変わりはない。
② 忠太郎さんの生前に作成した合意書
昭夫さんを含めた兄弟姉妹全員が、忠太郎さんの生前に、
その遺産分けについての合意書を作成していた。
しかしこれは、白紙に署名・捺印させた後で、
勝手に嫁のセイが遺産分けの内容を書き入れた偽造文書である。
③ 相続登記に必要な「相続分なきことの証明書」の署名・捺印(実印)は、偽造である。
④ 昭夫さんが死の直前に姉妹達に遺産分割のやり直しを認める旨の発言をした、等々。
10年以上も昔のことであるので、立証には様々な困難があったが、
①については、生前贈与を証明する証拠はなく、
少なくとも昭夫さんと弟の遺産分割協議書なくして相続登記はなし得ないこと、
②については、白紙の書面に各人が署名・捺印をすること自体不自然であること、
合意書の署名・捺印形式から
合意書の本文が空白ではなし得ないものであること、
③については、署名が各人の署名に酷似しているだけでなく、
添付された印鑑登録証明書の実印の登録状況・実印登録の実務などから、
偽造は無理であること、
④については、昭夫さんが遺産分割のやり直しを認める発言をしていたとする
まさに丁度その時期に、私が昭夫さんから遺言書の作成を依頼されたこと、
すなわち遺産分割のやり直しを考えている人間が、
自分の遺産の全てを妻に残すという遺言書を作成しはしないこと、
更に、昭夫さんから欲深い姉妹が自分の死後に何か不満を言ってくるかも知れない
と心配する発言を聞いていたことなどを、
昭夫さんの遺言書だけでなく、
当時の私の職務手帳や聞き取りメモを証拠として提出した。
第一審も、第二審も、セイさんの完全勝訴であった。
4年以上の歳月がたっていた。
5 裁判で繰り広げられた亡き夫の弟・姉妹の主張や供述は、
偽りの連続であった。
いや偽りであったが故に尚更、セイさんには胸をえぐる弾丸のようなものであった。
法廷に立つ、かつて仲が良かった亡夫の義弟・義姉妹のこわばった顔を呆然と眺めた。
セイさんがかろうじて最後まで戦い続けたのは、
忙しい仕事の合間を見て、やって来ては励ます
息子さん達3人の支えがあったからであった。
戦い終わったセイさんから漏れるは、涙とため息だけであった。
「おじいちゃんが亡くなった後も、あんなに兄弟仲良くしていたのに、
何でこうなっちゃったんだろう。
もう、死ぬまで、一緒に笑って話すことはないんだろうね。」
−セイさんが見ていたのは、目の前の勝訴判決文ではなく、
そのむこうの、貧しくても、大家族が、力を合わせて暮らした、
あの懐かしい日々であったのかもしれない。
そして、原告の弟・姉妹達は、
父忠太郎の遺産分けを求めて果たせなかっただけでなく、
父忠太郎さんが残してくれた家族の信頼と愛情という
最も大切な「遺産」を失ってしまったのかもしれない。