我が国では死刑制度が存在し、確定死刑判決に基づいて、
絞首による死刑が執行され続けている。

死刑制度については、
「殺してはならない」
という法規範を定めている国家自身が、
死刑という名の「殺人」を法制度として容認すること
の矛盾がある。
どんな凶悪犯であっても、
法の名においてその生命を奪うことが本当に正義にかなうのであろうか。
「人間の尊厳」・「個人の尊重」・「基本的人権の保障」
を旨とする近代法治国家にとって、
根源的な疑問として残る。
さらに、神ならぬ人の裁く刑事裁判では、
誤判の可能性が常につきまとう。
現に、免田、財田川、松山、島田事件などのように、
死刑判決が一旦確定した後に、再審が開始され、
無罪判決が言い渡された事例は、社会に大きな衝撃を与えたのである。
この陰には、冤罪の主張が容れられずに、死刑を執行された人々もいるが、
その中には、無実の罪で処刑された人の存在する可能性は否定できない。
「オレはやっていない!」と心の中で絶叫しながら、
絞首台に消えた無実の人がいるとすれば、
それは正義に反することは明らかであろう。
国連でも1989年12月にいわゆる「死刑廃止条約」が採択され、
批准国も増えているが、
国連人権委員会の我が国に対する「批准勧告」にもかかわらず、
我が国は未だ批准することなく、死刑執行を継続しているのである。
地下鉄サリン事件などオウム事件の検挙・起訴・裁判の様子が報道されるにつけ、
被害者の人権・被害者遺族の感情が強調され、
「死刑廃止論」への冷たい視線が感じられる昨今ではあるが、
ある日突然我が身に冤罪が降りかかる可能性にも思いを致し、
死刑制度の問題を考えてみたいものである。