日本人は、大岡裁きを受けることを望んでおり、
陪審制はわが国にはそぐわないのでは?
ー16年前の司法試験で、
「司法への市民参加」との出題にこう書いた私は、
その4年後のニューヨーク、現地裁判官の
「我々の出発点は隣人に裁かれる方を望むとの価値観だ」
との言葉に衝撃を受けた。
今、陪審制の数歩手前まで司法改革が来ている。
ところで、国民は、裁判官を大岡越前の守と考えているか?
多くの国民が、国や大企業等相手の裁判には勝てない、
裁判官は「強者の味方」だからと思っている。
裁判官はどこに住んで何を食べているのか、国民には見えない。
裁判に関わる機会を持った国民は、裁判官の尊大さと難解なその言語にのけぞる。
が、裁判官ネットワークというグループの
「現役」裁判官である。
日本の裁判官は、内部から外部から幾重もの縛りにかけられ、
退官後も、物を言わないし、そもそも言えない。
まして「現役」では、100%貝のごとく口を閉ざす。無害なことですら、である。
テレビの裁判官は、謙虚な物腰に分り易い言葉をしゃべるではないか。
実は、このタイプの裁判官は決して少なくないのであるが、
その姿は国民には、見えにくい。
最高裁が、
30年前「再任拒否」で切って捨てた宮本康昭元判事補を
裁判官任命手続きの透明化を図るための内部委員に採用した
−とのニュースにはひっくり返った。
時代は変わり、聞く耳出てきたのだろうか?
とにもかくにも、裁判官と国民の間にある川に、
今、両岸から橋がかけられつつあるようである。