袴田事件−最高裁差し戻し決定に思う〜(2021年1月1日)弓仲
はじめに
心配していたが、昨年末に
最高裁判所第三小法廷(12月22日付け決定)が、

静岡地裁の「再審開始決定」を取り消した
不当な東京高裁決定を取り消し、
東京高裁に審理を差し戻した。
高裁決定が確定しなかったことには、
まずはほっと一息。
反対意見の2名の裁判官が再審を認めるべきとして、
高裁に差し戻して更に時間をかけることにした多数意見に反対したのは極めて適切、
すぐに再審開始することにつき、
5人の裁判官中あと1人の賛成がなかったことが残念でならない。
1 袴田事件とは
静岡県清水市(現静岡市)で、1966年6月30日未明に味噌製造会社の専務宅から出火し、焼け跡から一家4人の他殺死体が発見された。
静岡県警は同年8月18日夜、強盗殺人等の容疑で、住み込み従業員だった袴田巌さん(1936年3月1日生まれ、元プロボクサー、当時33歳。現在84歳)を逮捕。
決定的物証を得ていない警察・検察は、袴田さんから自白をとる取調べに全力を傾注。
袴田さんは、無実を主張し続けていたが、この年の猛暑ともちろん取調べ室には冷房設備などはないなかで、連日長時間の取調べを受け続けた。
袴田さんは、同年9月6日午前11時から、ついに自白をするに至った。
それまでの取調べ時間は合計約240時間余(19日間)にも及んだ。一日あたり、平均しても12.63時間。自白直前の9月4日には翌日午前2時の収監まで16時間20分、9月5日には12時間50分もの長時間且つ過酷な取り調べを受けた。自白したときには疲労困憊の状態であった。
同年9月9日には、
強盗殺人、放火及び住居侵入で起訴された。

静岡地裁の第1審公判では、
袴田さんは自白を翻し、
以後一貫して、
犯行を否認し無実を主張し続けたが、
1968年9月の静岡地裁判決は死刑。
袴田さんは、控訴、上告したものの容れられず、
1980年11月には最高裁が上告棄却、同年12月に死刑が確定した。
袴田さんは、
1981年4月に静岡地裁に再審請求(第1次)するも1994年8月に棄却され、
東京高裁の即時抗告棄却を経て、2008年3月には最高裁が特別抗告を棄却。
2008年4月には、袴田さんの姉秀子さんが静岡地裁に再審請求(第2次)。
2 静岡地裁での再審開始決定と袴田さんの釈放、
その後 静岡地裁は、2014年3月27日、
再審開始とともに死刑及び拘置の執行停止を決定。
再審開始決定に決め手は、ふたつ。
1) DNA鑑定(本田克也筑波大教授)により、
確定判決では被害者ともみ合った際に怪我した袴田さんのものとされていた衣類の血痕が、袴田さんのDNA型と一致しないことが判明したこと。被害者の返り血とされていた血痕が被害者のものとは確認できなかったこと。
2) 味噌漬け再現実験報告書により、犯行時の着衣とされる5点の衣類(事件後間もなく味噌樽に隠された後少なくとも1年1か月余り後に発見された)の血痕の色が、長期間味噌の中に隠匿されたにしては不自然で、事件から相当期間経過した後に味噌漬けにされた可能性があること。
静岡地裁の上記決定で、
袴田さんは、逮捕以来47年7か月ぶりに釈放(確定死刑囚のまま)され、
現在は静岡県浜松市の姉秀子さんの家で生活している。
逮捕後47年7か月、死刑確定囚としても、33年3か月間獄中にあり長期間の身体拘束による拘禁反応の影響で、意思疎通が不十分の状態が続く。
3 東京高裁での逆転決定
一日も早い再審開始と再審公判での無罪判決
が望まれていたところ、
検察官の即時抗告を受けて、
東京高裁は、2018年6月11日、
再審開始決定を取消し、再審請求を棄却した。
1)本田鑑定の信用性を否定するとともに、
2)血痕の変色状況についての判断は不合理と、
静岡地裁の再審開始決定の根拠を否定した。
しかし、その東京高裁も死刑及び拘置の執行停止までは取り消さず、
釈放は維持されたままである。
4 最高裁の高裁決定取消と審理の差し戻し決定最高裁第三小法廷は、
2020年12月22日、東京高裁決定を取り消し、
東京高裁へ審理を差し戻した(多数意見3、反対意見2)。
決定は、
1) DNA鑑定につき、長期間の資料の劣化などで鑑定は不安定で困難として証拠価値を否定、
2) 犯行時の衣類に付着した血痕の変色状況に関する味噌漬け実験等に証拠価値なしとした高裁決定は審理が不十分とした。
多数意見が本田鑑定の証拠価値を否定したのは不当だが、
高裁の差し戻し審で、犯行時の衣類に付着した血痕の変色状況に関する審理が前進し、
袴田さんの再審確定、無罪に向け、世論を盛り上げたいもの。
5 熊本典道元裁判官の衝撃の告白
静岡地裁の確定死刑判決の判決文を書いたのは熊本典道裁判官(左倍席)だった。
自らは審理の中で、決定的な物証もなく、
長時間且つ過酷な取り調べの結果得られた自白の証拠価値にも疑問を抱き、
袴田さんの無罪を確信した。
しかし、合議では有罪意見の裁判長や右陪席の先輩裁判官を説得することができなかった。
熊本さんは、不本意ながら袴田さんに対する死刑判決を書くことになったという。


熊本さんは、自らが書いた死刑判決が
上級審で覆されることを強く願った。
不本意な死刑判決を書いた熊本さんは、
翌年に裁判官を辞めた。
しかし、袴田さんへの死刑判決に
「私は人殺しも同然」とその後も苦しみ続けた熊本さんは、
自責の念から2007年2月に、上記判決の内幕につき衝撃の告白をして公表し、
袴田さんへの謝罪の気持ちを明らかにした。
熊本さんは、袴田さんの再審請求につき陳述書を提出するなど支援を続けた。
合議の秘密を明らかにしたことへの批判もあったが、
長く冤罪が疑われていた事件だっただけにマスコミにも好意的に取り上げられもした。
熊本さんは、
袴田さんの再審無罪の確定を強く願ったまま、
無念にも昨年11月に死亡した。
袴田さんの雪冤を強く願う。